私の中の「女性」


母と話している時に、ときどき痛烈な皮肉で刺されることがある。昔はそれで、いちいち怒っていたが、最近はそんな母の心理がわかってきて、ああそうか、と認められるようになった。

77歳の母と電話すれば、「体がきつい、きつい」と、いつも私に愚痴る。私が実家に帰って手伝えればいいのだが、今、東京から他県へ行くのは、とても危険だし、母もそれは頭でわかっているのだろう。「帰ってきて、手伝って」と言いたくても素直に言えない気持ちが、通烈な皮肉で私を刺したくなるのはわかる気がする。

私はまだ体力があるので頑張れるが、77歳になったら、娘に助けてもらいたくなるのだろうか。

正直いうと、私は母に「大人になったら親の介護をするように」と言われ続けて育った。それが少女期の私の精神の自立を妨げることになり、大人になってから何度か精神医療にお世話になったこともあって、娘にはそんなプレッシャーはかけたくないと思っている。

最後の最後まで、誇りを持って生きたいと思ってきたのだけど…それは可能なのだろうか。私が守ってきたプライドというか...イノセントが、逆に私の中の「女性」をいつも圧し殺してきた気もする。

女性…あまりいいイメージがなかった。彼女の人生とは、結婚して夫に使えること。しかしそのような道を歩んできた女性は、いつも周囲に翻弄され、あまり幸せには見えなかった。

多少の重荷を背折っても、いろんなことを自分で決めて歩ける方がいい、という考えは今も変わらない。でも、素直に男の腕に飛び込んで、その力強さと温かさに存分に甘えられてきたら....どうだっただろうか、と思うことがある。

日本人もアメリカ人のように、気軽にキスやハグができればいいのに。アメリカ人のように、気持ちを伝えることに躊躇しない文化が、日本にもあればいいのにな、そうしたらきっと人生は2倍楽しく鮮やかになるもんだ、と、昨年末にマイアミへ行ったときに、思った。

人の心に深く立ち入らないことで平和を保つ、という習慣は、日本文化が守ってきたイノセントだ。

イノセントを捨てて、心のままに、本能のままに人と向きあって、愛しあったり憎みあったり傷つけあったりする経験を重た場合、歳をとってから、美しくなる人と醜くなる人に分かれる。日本人は後者が圧倒的に多いように思う。

物事を自分で選んで歩む力がなければ、人生の中で起きる色んな事件を自分の経験として享受することができない。人のせいにして、恨みや嫉みばかりが積もり、お婆さんになってから、若者に嫌味ばかり言うようになってしまうのは、とても悲しいことだ。


老年の女性から「結婚なんて虚しいわ」「男と女なんて幻想よ」なんて言葉が出てくるのは、女として正面から男と向き合った経験を糧にしていないと思う。様々なふれあいの中から細やかに生まれる愛情や思いやりを、受け取ったり返したりできる感受性を知らないまま死んでいくのは、なんて虚しいことだろうか。これ以上の人生の浪費はないのではないだろうか。


だからこそなんだけど、まるでリングで戦うボクサーたちのように、何度も壮絶に殴り合いながら、最後まで寄り添った男女って、すごい愛の力だな、と尊敬の念を抱いてしまう。 絵:ボッティチェリ「ヴィーナスの誕生」


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