性犯罪について考える

最終更新: 3月15日


3月8日は国際女性デーだった。国内外では性犯罪被害者たちが公演や路上演説などをして女性の人権への理解を訴えたり、警察が性犯罪にあった学生の制服再購入のための援助策を打ち立てるなど、いろんな動きが見られた。(制服を着ていたときに性被害にあった被害者は、その制服を着ると当時のことがフラッシュバックされるため、その制服を着ることができなくなるという)


若い頃、私はこういった話は、まともに聞くことができなかった。被害にあった人の恐怖がトランスレートされてしまい私まで壊れてしまいそうだったから。

しかし被害に遭われた方は、私が感じる以上の屈辱や悲しみ、怒りで崩壊しそうな自分に苦しみもがいていているのだろう。

世間は本当に無神経で、被害者を好奇の目で見たり、いい加減な言葉を投げたりするので、被害者は自らの苦しみを封じ込め、誰にも心を開かなくなってしまう。


性は生きる力の根源だ。女性が女性らしさを自由に発揮することが幸せに繋がるように、男性が男性らしさを自由に発揮できる社会でれば、お互いに傷つけ合うことはなくなるのかもしれないが、悲しいことにそれはまだ現実的ではない。

理由は何であれ、生きる根源を根こそぎ奪う卑劣な暴力があること、本当の意味で「性」を正しく扱う知識と技術を知らない現代を私はとても恐ろしいと思う。


性犯罪被害を訴える団体”Me Too”の活動が活発になってきたとき、不快感を訴える男性たちがいた。

被害に遭う女性がいるなら、加害者になる男性側にもどうしようもない理由があるのだろう。


男性と女性は互いを必要としている。にもかかわらず、女性が考える女性らしさ、男性が考える男性らしさが、必ずしも両者の幸せには繋がらない。悲劇が起こるのたび、欲望の行き場をなくした人たちの悲痛な叫びが聞こえてくるようで切なくなる。


被害に遭われた方々ができるだけ早く傷を癒すことができますように。 加害者の男性が、事件を起こすまでに肥大してしまった心の傷を癒すことができますように。


そして、男女が安心して暮らしていけるような社会へ進化していけますように。祈らずにいられない。


絵:エドヴァルド・ムンク「吸血鬼」1895-1902年



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