アラフィフの岐路



さっきTEDを聞いていたら、ウトウトと眠り込んでしまった。耳にはしっかり英単語が入ってくるのに、目蓋が落ちてきて、体の骨が溶け出すように眠っていた。今日は夫が出張でいない。彼の部屋に布団を持っていき横たわっても落ちつかないので、また仕事部屋に戻って、PCの前にいる。ここが一番落ちつく。


私は、すでに一人なのだと思う。一人は普通のことだ。誰かと暮らしていても、日常生活では、まったく違う経験を積み、まったく違う人生を歩んでいる。いつも一緒にいて以心伝心、というのは、若い時の幻想だ。その幻想は消え去り、今は、少し寂しく、そして限りない自由の中にいて、天と繋がる可能性さえも与えられている。


一昨日、私に英語を教えてくれたフランス人女性は、美術家でもあり、エレガントな人だった。彼女の作品をみた私は英語で感想を言うと、彼女は流暢な日本語で楽しそうにこれまで関わった仕事の話を始めて、瞬く間に40分経ってしまった。

私はこの日のために浮世絵の話を英語でまとめてきていたので、少し時間を無駄にしたような気がしたけれど、私と話しているときの彼女の満たされた顔を思い出すと、ああこの人は、誰かに自分をわかってほしかったのだな、と思った。


少しずつ何かが変わっていく。小さな変化を見逃さないように、私はここに書き留めている。

50歳前後。この時期は、これまでの人生を振り帰り、やり残したことに関してリベンジをしたくなるのだろう。私の周りでも新天地を求めて海外へ旅立ったり、勝負のコンサートを企画したり、大胆な賭けに打って出る人をよく見かける。

洋画家、三岸節子がパリへ旅だったのは49歳。小説家、瀬戸内寂聴が出家したのは51歳。日本画家、田中一村が奄美大島へ移り住んだのも51歳だ。


私もまた、養分を欲している。何か新しいものを心に入れないと干からびてしまいそうだ。この飢餓感を身近な人は大抵不快に思う。幸せでいてほしいと願うっているからだろう。しかし内面の苦しみを分かち合えてこそ本当の幸福で、一方的に相手に「幸せにする」とか「幸せでいろ」というのは、相手の幸福でではなく、実は自分の幸福を願っているのだ。愛の限界に気付いた多くの人は、人生の苦難と興奮を引き受けて、自分の道を選んでいった。


運命的な出会いは人生に一つではない。節目節目で、重要な人、事柄に出会う。その時は気づかなくても、あとでそれが大きな意味を持っていたことに気づく。

多分この1~2年で、私の状況も大きく変わると思う。それは家族が変わるとか、住居が変わるとか、そういう目に見えることではなくて、私の内的変化が起こるだろう。そういう時は決まって誰にも会いたくなくなる。今までのことが急速に陳腐になっていき、私は藁をも掴む気持ちで、次なる未来を探す。


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